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12月 10日 19時45分
ある12月の寒い日に
久し振りにうどん を頂く
美味しかっった、、、、ツルツルとした、このツッルツル感は素人の出せない舌ざわり。
でも遠い昔、頂いた、こんなにまっ白くない、、、夕方母が家で作ったうどんの味、、、うどんの食感とお野菜、肉の入ったうどんもオイシカッタ。。。。。
うどんを家庭で作れる アルミで出来た機械 があり、手伝った事を思い出した。
結構美味しく出来、汁も勿論、自家製 イワユル、、、手打ちうどんでアル。
昔は、私の子供の頃は色々な食品が自家製であった。母は、何でも上手に つくる 人であり 手打ちうどん器でうどんを作る事はソう度々ではながったが、手伝う事がなにか一種の遊びの様でよく楽しみながらうどんを作った。。。。。
その後長い間物置に置いてあったか、、、今はどうしているのだろうか。。。。多分古道具屋さんに売り払ったのだろう。。。。がチョッと惜しい様な気がする。。。。
今、その機械があれば、その機械で又うどんを作ってみたい。 私はドイツに来てからも手打ちうどんjを良く作った。 昔子供の頃、家でしたようにして作ると美味しい。。。。。
デっセルドルフに住んでいた頃、日本クラブに生活部という部があり、そこで一度 >手打ちうどんの作り方>をいう甲キャッチフレーズで講習をした事がある。
結構参加者が多かった、、、、、只、やはり作り方は、、、生地のつくり方は素人にはそう簡単ではなさそうだった、、、ケーキの感覚で作るらしいのであまり成功者は、いなかった様であた。
わたしはヨーロッパのパスタ製造機をイタリアの食材店求めて一時凝って家で度々作ったがこれもそう簡単ではなく、それに後かたずけも結構時間がかり、、、最近は専ら市販のうどんを用いているが昔は おすいとん を言って、、、多分私の故郷の方言だろうと思うが、母が、たまに作っていた事をおもいだした。それが面倒くさければ近くの八百屋さん等で生うどんが売っていた、それに蕎麦屋、うどん屋に行くとウドン、そば玉が買えた
オイシカッタ
母は、あまりうどんは、好きではないらしく殆んどが米のご飯とそれにイワユル おかずであった。 当時は、肉屋さんでコロッケ、カツ。野菜の天ブラ等も求められ母が夕食の支度時間など充分にない時に、もう一品、、、と言う場合、コロッケ、カツ等を買ってきて添えた様だ。
2022年も既に12月と迫る
そして12月は3日目、、、、、、、矢のごとし
私が住んでいるハンブルグのフラットは運河が近くにありその向こうには、素材を精選したケーキを作りその質と味でこの界隈では人気があるカフェーがある。
時々運河まで散歩に出かけた際にそこでお茶と薄味のサッパリした洋菓子を楽しみ ノンビリ とした午後のお茶を楽しむ。 そのケーキの味は、さっぱりした食感があり紅茶が良く合う。
若い時は、殆んどコーヒーを頂いたが、最近はコーヒーは全く受け付けず、紅茶のみ。
日本では日本茶を好んで淹れたがヨーロッパで飲む日本車は美味しくならないので、紅茶一辺倒。
その紅茶にも様々あるので、美味しい紅茶に出会う事も中々そう簡単ではない。 ある時お茶、コーヒー専門店、、、のお墨付きの紅茶を買って早速家でドキドキしながらヤヤ緊張気味で淹れた紅茶がなんと今迄経験した紅茶の中で最下位だったので、それ以来、スーパーやそれに類する店で紅茶を試したところ結構美味しいお茶に出会えたので、その線で紅茶選びをしている。
カフェーもそうだが特に、紅茶は淹れかた次第で大分味が変化する。。。。毎回、味が違っている。。。。。。何か環境、心のありよう が影響するのだろう
ドイツで頂く日本茶は美味しくないので紅茶一辺倒、そして、やはり日本茶は日本で頂く日本茶が美味しいの一言に尽きる、、、、、やはり気候、、温度、湿度、環境が味を つくる のだろうと思っている。。。。。。そして新鮮であ事。
気がつけば、、、、、、早、、、3日
矢の如く、、、、、である。。。。。。
今年は一体何を成し遂げたろうか。。。。。と思った。。。。。。 そう、健康で日々を過ごせた事。。。。。
80歳にも達っし、、、こうして健康で過ごせる事は感謝、、、神様に私の神様に、私をいつも見守って下さる神様にそうして健康に恵まれ生活できる事を、両親とその代々のいにしえの人々に。。。。。
上も下も限のない、この人間社会の中で幸せにここまで生命を経験出来た事を有難く思う。
日本 高崎 ドイツ ハンブルグ、私の初めての外国ハンブルグに6年間住み、日本 大阪 そして、エジプト カイロでは、私に取っては、おとぎ話の様な別世界に5年住み、その間ヨーロッパの都市、ローマ スペイン ポルトガル 東欧と駆け巡り興味深い経験が出来た事。。。其々の国々の食事、植物の変化同様に人間と言語、気質、歴史を肌で触れた事、、、そんな環境の中で精一杯生きた事。そして現在ドイツハンブルグに生活している。
私の初めての外国は、関西 大阪であった、、、言葉、気質,習慣、風景が私の生まれ故郷、高崎とは、全く異なった外国であった。毎日が楽しかった、その違いを経験出来る事が嬉しかった。。。。。。そして、当の西ドイツ、その時代はドイツが東西に2分されていた。
西ドイツ ハンブルグからまず東ドイツへ入るには、東ドイツから入り、まずアスポートの提示、、、怖そうなオジサン達に胡散臭い表情でパスポート、車の隅々まで点検を受け通過のOKを有難く頂き、東ドイツ入国、東ドイツの景色は物悲しく貧しさが漂っていた。。。。そしてべルリンに到着。 西側のハンブルグに住んでいた私達は、そこから東ドイツに入った途端に何か停滞した空気、生き生きと呼吸が出来ない圧迫感、生気のない、まるで空気まで統制された様な空間に入った。人々が息を殺し生活をしている、何か人間が自然に持っている生気が統制された様な空気が伝わってきた。ジッと黙って耐えている空気が。。。
私には、何が何だか理解できなくなた。。。一体全体、何の為に。。。と当時まだ24,5歳の私は思った。
今でも特に、印象的に残っている思い出は、週末の夜、東ドイツの人達がこぞって夜、散歩に出かけている風景だった。楽しそう、、、、、と言うかそれ以外に外へ出かける所がないのか、驚く淀の人々、老若男女入りマシり、、と言うか若い々人々が多く 割合に ウキウキとしながら夜の ウンターデンリンデン を散歩していた、夜の大通りを散歩していた。。。。私達、日本人も彼らに交じって散歩をしたが。近くには、秘密啓作が、、そんな類の男性が私達の後をつけていた。それなので、私はその中の一人の男性の腕を取り仲良く並んで歩いた。
その夜の人出は稀にみる、、、私に取って稀見見る光景であった。 でも、人々の表情はどことなく自然な溌剌さに欠けていた、何か、、、お仕着せの行動に従っている、、、という印象だった。。。。。そして私達4人は監視されている、、、という感覚がジワジワと伝わってきた。。。。。。それなので、私はその中の一人であとう思う人の腕を取り一緒に歩き出した 、、、楽しかった。
勿論、東西の境界線、当時首都ベルリンも東西に解れていた、、、には厳重な警戒であった。車はシートの下迄、ありとあらゆる場所を時間をタップリとかけ点検した。車の下ありとあらゆる場所という場所を。
当時、特によくあるユースは、いかにして東西の壁を突破して西側に逃げ込んだかといったものだった。。。。。。今は昔の話である。。。。。。。。
一度、東べルリンを見学したが、その西と東の差は、、、落差は雲泥の差、、、だった。そして私は、そこはかとなく 悲しくなった。
2022年、今は昔の話である