イースター休暇も終わり。。。キリンとドイツの英雄伝説ジークフリード

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イースターの連休も終了し、今朝末息子はチューリッヒへ帰る。      ハンブルグの娘、日本から長男そしてチューリッヒから末息子が、2月末から3月末日にかけてそれぞれの都合に合わせてヂュッセルドルフを訪れた。

これといって、取り立てて深刻な話などはしなかったが、、、なかったので、、、近況、例えば長男、ガールフレンド状況、日本の話、スイスの話、買い物、料理、ドイツ人の悪口、、、日本人の話題、幼馴染とのデイト報告、そして噂ばなしと友達評価、娘のハンブルグでの生活、孫娘の自慢話、息子達の料理の話、ナドなど等                               子供達が来るとレストランへ行く事も楽しみの一つになってい、あれやこれやと悩んだ末に毎回、寿司屋かラーメン屋さんと、いつも決まって日本食に落ち着くが、その子供達とのレストラン巡りの背景にいつもキリンビールの不思議なラベルが静かに付き添っている。 そして決まって、どういう訳か、ドイツの竜退治の話、ジークフリードの話を思いだし。。。ワーグナーのオペラの灰色の雲が私の後頭部を覆う前に、急いで話題を切り替える。

子供の頃、この不思議な姿、キリンとは似ても似つかぬ、どちらかと言えば火鉢の絵の天女を思い出させる、しなやかな姿が不思議で飽きずに見入った。。。日常からフッと遮断された現実逃避の軽い楽しみの世界があった。。。

アイさずにはいられない素晴らしいKitschキッチュ 俗悪趣味

心の深層からほとばしる、泉の如く湧き出でる、朝日の如く素直に力つよく気が付けば思わず抱擁してしまう。。。これは「アイ」というものではないだろうか。。。。。愛さずにはいられない私のプラスチックのエンジェル。。。。。。私はアイシテイル。DSC_3596

“真面目”にドイツ語で ”Ich liebe Dich” と言われた場合、と日本語で同様に真面目に ”愛している” と言われた場合を比較すれば、告白する人となりにもよるところが大いにあるが、ドイツ語の方がシックリと自然に響く。

日本語の場合は「アイシテいる」より、「好きだ」と心をこめた言葉はドイツ語より一層に深く響く。。。日本語の場合は、、、両方であれば、一層に効果あり。。。

それで何を言いたいかと言えば、この写真のプラスティックのエンジェルを私は、こよなくアイシテイル。。。この場合日本語の「愛しているアイシテイル」はピッタリ、シックリこの上もなく自然に響く。                       私はこのような安っぽい子供の玩具が好きだ、安っぽく、表面的で、直接的で演歌の様で、どこかその後ろで私達を、、、イエ私をバカにして笑っている様なところは愛さずにはいられない。

 

 

 

 

Frohe Osterfestフローエ オースターフェスト イースターおめでとう

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DSC_3606 我が家のオースタの朝のテーブル。                  右やや中央下はスペインの生ハムIbericoイベリコ、、、一度お試し下さい。。。

今日はキリスト教にとって最も大切な祝日、イースター、、、そして現代人、キリスト教信者であろうが、なかろうが、夏時間が始まる大切な日でもある。

今日、ドイツ人に会うと、こう挨拶される。。。               Frohe Oster!イースターおめでとう!            そうしたら、異教徒の私も 「フローエ オースター!」 と挨拶する。    そして、イースター休暇で帰宅した末息子、洗礼を受けていない一応キリスト教徒の息子と、イースターにあやかって普通の週末よりはチョット豪華に仕立てた祭日気分の朝食と又久し振りの会話というか雑談を楽しむ。

敬虔なドイツ人は、教会に行き、牧師さんのお説教を聞き、パイプオルガンの伴奏で讃美歌を歌い、ミサで会った同様に敬虔な知人やご近所の方達とイースターの挨拶をし、それぞれ三々五々家路に着き普通の日よりはどこか大切な祭日らしい食事が食卓を華やかに飾る。。。ミサはお年よりの方が大部分。    教会離れした多くのドイツ人はイースター休暇には、待ってましたとばかりに、どこか天国のような雰囲気の南の国に出かけるか、スキー休暇、そうでなければ、家でのんびりと過ごすパターンが普通のドイツ的現象となっているらしい。

Ostereiersuchenオースタ―アイアーズーヘン イースターのタマゴ探しといって、家庭では両親がプレゼントを隠し子供がワクワクしながらそのプレゼントを探す、、、息子がまだ幼稚園だった頃は主人が一生懸命プレゼントを隠す事に専念したものだ。                         クリスマスのサンタクロースのプレゼントと共に、オースターのプレゼントも子供にとって、とても大切な出来事になっている。

チューリッヒからの おみやげ

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末の息子のチューリッヒからのオースターに因んだ、ヒヨコのチョコレートのお土産。

この安っぽさはどうだろう!!!!!                                                  安っぽさに何のてらいもなく、疑問もなく、躊躇なく徹底している姿は、アイシテしまう。。。。何事も徹底、究極を極めれば、アイはそこに見出される。。。目出度し愛でたしメデタシそして芽出度し。                                日本語であって、日本語でないこの表現、アイシテイル その国籍不明な言葉に誠意と誠実を吹き込み、その言葉の深い意味と又その言葉が所有する諸々の意味を知る事なしに、のべつ幕なしに、まるで熱にうかされたように口走ったらどうだろう。。。。。サア、どうなるのでしょう。。。。。きっとこのチョコレートの様になる。。のだろうか、、、そうなったとしても,神様はこうおっしゃいます。。。 「蓼食う虫も好き好き」 、好みの問題、、、でも、どうしても何が何でも、どんな犠牲をはらっても体験したい方は、一度お試し下さい、神様は見捨てはしないでしょう、、、めくるめく甘い「アイシテイル」人生が きっと待ってましたと言わんばかりに満面の微笑みをありったけバラマキ優しく夢見るあなたをとらえる事でしょう。。。どの様にですって、、、それは後のお楽しみ!!!!!                                                     Aber, auf eigene Gefahr. でも、自己責任で!

Osterオースターのうさぎとタマゴと私の混乱した宗教観

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明日はキリスト教ではKarfreitegカールフライターク といって、キリストが磔刑に科せられた日、キリスト教の祭日の中で最大の意味があり、クリスマスより大きな祭日となっている。     肉食、ダンスを避けるというより禁止、、、の習慣が現在でも残っているという事です。

キリスト教の歴史を、私ながら表面的ではあるけれど、知るといかに人々の生活に根を張り、人々を支配していたかという事が伝わってくるが、それでは仏教は、それまでにキリスト教の様に人々、、、日本人、、、の生活を支配したかと考えれば、そうではなかった様に思う(義務教育、そしてそれに続く教育を受けた期間に宗教という科目はなかった私の体験として)人間も自然の一部であり、私もその一部、、、、という私の基本的な考えは、多分仏教の教えからきているのではないかと思っているが、外国に住むようになってから初めて貴女は 「仏教徒ですか」 とか 「貴女の宗教は何ですか」 などと問われ最初はドギマギして慌てた、、、それで初めて 「宗教とは何だろう。。。」 と考えるようになった。。。という事が私の初めての宗教との「出会い」であった

キリスト教の中世の権力を巡るまた、魔女裁判の歴史は残酷そのもので既に宗教とはかけ離れてた人間のおぞましい歴史の足跡であり、何故宗教がこの様に残酷になれるのかと不信感を抱いたが、半面キリスト教の 「隣人愛」に初めて触れ深い心の震動を覚えた。 それにしてもこの矛盾は何だろう、、、、、、、、

ライン川の水位計Pegeluhr

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正面はライン河の水位計。左は時間の時計、、、つまり、いわゆる時計。

雨が続きライン河の水かさが増すと、散歩がてら写真を撮りに来ているドイツ人を目にする。                   水量の増したライン河はいつもと違った表情をしている。何か力強い流れる底力、自然の力をはらんでい、生き物のように、ある威嚇さえ感じられる。                       以前、まだ末の息子が小さかった頃、ライン河の向こう岸、、、左岸に住んでいた頃はよくライン河へ散歩に行った。た。                           現在、その息子は既に社会人となり、チューリッヒで生活を始めている。

時々ラインへ散歩に行くが、現在右岸に住んでいる私にとって、ライン河の左岸は古いアルバムの中の様々な時の足跡の響きのようだ。

ドイツ人の血の中にある、ドイツ中世の市と市を守る門とぐるりと市を囲む防壁。

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21世紀。。。観光と実用を兼ねた風車

ドイツの歴史ある都市を旅行し、まず 見学 させられる 場所は、由緒ある古い市庁舎の建物とその市の古色蒼然としたいかめしく戦闘準備全て揃った門とその市を守る壁である。 ドイツに生活して間もない頃の私は、驚いた。

ドイツの市の誕生の歴史を紐解けば、宗教(キリスト教)、領主、民衆の中世封建社会の中で(宗教が三角形の頂上に位置し次が領主、そして底辺は民衆)搾取されていた底辺の民衆が、11世紀頃からの商業の発展に伴い経済的に力を得、同様に発言権も増し、民衆の自らの生活指針、方針を打ち立て、宗教、領主からの圧迫に対応する機構として民衆の代表としの市が誕生した。。。これは言ってみれば、民主主義の最初の芽生えだ。。。。。と感動した。。。そして現代のドツ人が自己の権利、意見をまくしたて始めると何故か中世都市の市の門、壁が私の目の前をよぎる。。。。。

下の写真は中世の町をぐるりと囲む市の幾つかある中の一つの門。         市の門は、「日没」に閉められたので、中世の旅人は日没までに門の中に入るという事は時には生死にかかわる問題だったという事だ。。。そ市門の外に時々修道院があり、旅人は、一夜と安全をかろうじて得る事ができたそうだ。。。それ程中世の世界は物騒だったという事がうかがえる。

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日本とドイツの月の満ち欠け と その名称

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これらの月の満ち欠けと共に名づけた名前、また月にそれぞれの想いを託した様子がありありと目の前に拡がってくる名前だろうかと、心が和らぎ人々の生活の息吹が伝わってくる。                                    月は和歌の中で気持ちを伝える手段として度々登場し、ヨーロッパでもゲーテ、その他の文学に月は欠かせないが、日本の場合は文学者ではなく人々の生活の中に違和感なく調和している。そしてこの月の満ち欠けのそれぞれの形の名前はどうだろう。。。人々の気持ちが滲んで言葉になったようだ。

ヨーロッパの月の満ち欠けの8段階の名前は理解し易く、合理的である。       私にとり、特に印象的であったのは、満月VollmondをErntemond収穫月、三日月をSichel鎌と名づけている以外は合理的に1/4 ,2/4, 3/4 と、ごくクールに接している事だった。満月を別名「収穫の月」三日月を「鎌」それ以外は感情移入していない事とその命名に生活が滲み出ている事だった。

 

気が付いてみれば、勝手にウインドウズ10

そういう事の次第なので、その結果、写真が送信出来なくなった。。。と固く信じ込んでいった。。。。。ドイツ語で表現すれば、ärgerrlichエアガーリッヒ それも、とってもärgerlich!!!!!   だった。。。。。それでワインメッセが終了したら息子が修理する事になっていた。。。。。が。。。。。一夜明けると、何とドイツのおとぎ話のHeinzelmännchenハインツェルメンヒェンが訪れ。。。この通り!!!!

写真は息子の祖母さんのそのまた祖母からの飾り皿とデミタスセット。OpenDocument Text (neu)OpenDocument Text (neu)OpenDocument Text (neu)OpenDocument Text (neu)OpenDocument Text (neu)OpenDocument Text (neu)DSC_3372

 

お土産 ドイツのお土産 と 日本のお土産

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長男が久し振りにデユッセルドルフを訪れた。。。勿論、お土産をドッサリ、、、とは言えないが、少なくなく、、、忘れずに。

海外に住んでいる人へのお土産は殆どは日本食に関する食料品と決まっている。。。それで息子のお土産も、そういった意味で常識的なというか、優等生的なお土産だった。

日本人社会では至る機会にお土産、、、物のやり取り、、、が行われる。       もし「日本的なお土産感覚」でドイツ人に接したなら、時と状況によるが、ドイツ人は、どうしてこんなにプレゼントをこの人は持ってくるのか、、、といぶかしがる、ドイツ的感覚からすれば、するべき事をした、、、のである。                      私が思うに、ドイツ人にとったら不必要な程ドサリと立派なお土産は、日本的習慣の一つの現れの中に、もう一つの、日本人の頭の後ろにある、海外では恥をかかない様、礼儀正しく、お利口に振る舞わなければという律儀な行儀作法がそうさせるのだろうと思う。。。。。。が、それでは、アメリカ、ヨーロッパ意外の場合でもそうかと問えば、正しくないような気がする。                                     同じアジア人という気安さが手伝うのか、もっと自由で、時時その自由さの解釈を拡大誇張して、礼儀を欠いている日本人も認められる事は、同じ人種として、アジア人種として、残念でまた恥ずかしくもある。

私はまず、アジア人でそして中国、韓国、日本文化圏内に属し、もっと詳しくは日本人、、モット詳しくは「とわ(永久)にアジア圏内の中の日本人」と思っている。