久しぶりに入学祝に和菓子を作ってみた、、、。
題して ””栗しぼり”” 甘味を抑えた仕上げ は優しいおいしさでした。
東洋と西洋の考え方の違いをいつもの事ながら強烈に体験する。
ドイツの小学校の最年長学年4年生が新入生を歌で歓迎、どこか教会の日曜日のミサの形式と似ていた. ミサは半分以上が信者と牧師さんの歌の交換で行われる、まるでミュージカルの様に私に感じられるが、同じように4年生が様々な歌、また視覚を通して新入生に歌で、伝えたい事を表現していた。 要約すれば、皆それぞれが異なっていること、同じでじはないこと、それぞれがそれぞれの特徴と個性を持っている事、そしてその事は大切な事、世界は色とりどりで同じではない事、だから楽しいのサ、、、と楽器を通して伝えていた。 そして同様に強く印象の残った言葉は、MEIN マイン 所有格 私の、私の物 英語のMyに当たる、これは私のもの、そしてそれはあなたのもの、、、と幾度も幾度も繰り返す歌だった。 ジーンズ姿の音楽の先生が指揮をし一緒に歌って体でリズムをとり、、、リズムを取るというよりは、正に踊っていた、、、、、出席者も大体同じような服装が大方であった。 その後、校長先生から新入生へ祝辞というよりは短い短い話、出席した両親、おじいちゃん、おばあちゃんへの子供に対してよりは、やや長めの挨拶の後、クラス分けと担任教師の紹介後、新入生は先生と共に教室で人生初の授業なるものを受けた、、、1クラス24名の編成が4クラス 入学式の伝統で子供の初の授業後、気の合った子供同士の家族が組んでレストランで食事。
校長先生の出番が極、極、控え目に背景に、4年生の歓迎 ミュージカルが中心の入学式だった。
今までに虹を見たことは何度かあるが、一つの例外を除いて殆どが儚い夢の中の、現実にいて、まるで現実でない一体全体、本当に見たのかどおうかはっきりしない淡い虹の他次元の経験のような思い出である。
子供の頃、多分4才位の頃、夕方8畳の部屋で兄と汽車ごっこをし、母が怪我をするから止めなさいと言っているさ中に特急の速さについていけず急激に転び脛の骨を折った。 何ケ月か後に完治し、そのお祝いに母が赤飯を炊き近所の人達に配った。その日の明け方、当時でも珍しい位に雪がどっさり降った。翌日は冬の日光が白銀色に眩しく管楽器の音色のように輝き、冬の厳しい張りつめた空気がみなぎり昨日までの諸々の日常が真っ白い雪に包まれた異国の中に虹の7色が高らかに協奏していた。その虹の見事さは非現実的な程に完璧で虹のお手本、虹といったらt誰でも思い浮かべる殆ど安っぽい迄に絵本の虹とそっくりで、まるで虹にお手本というものがあれば正にお手本であった。本物と偽物の境界線が消滅していた。くっきりと言うよりは、あっけらかんと どぎつく7色が 冬の冷たい天空を強靭な意志のように斜めに君臨していた。
普通に歩ける様になるのかと、母が通院する度に医師に何度も何度も何度も質問するので、私は、どうしてそんなに執拗に聞くのかと不思議に思った事を、虹を見る度に、あの虹の超現実的な情景と共に思い出す。
母のあの質問に籠っていた切迫した熱意は、自ら母親になって初めて生理的に理解できる事なのだとつくづくと実感した。
この頃都でハヤル物、夜討ち、強盗、えせ論旨、、、、これは室町時代の二条河原の落書き。 サテ舞台は時代もロケーションもガラッと変化し、この頃ドイツの都でハヤル物の一つ、、 名前に関して。
日本に名前の流行があるようにドイツでも同様なようだ。 私の家の近くのユダヤ教会の広場はちょっとした子供の落合場所になっている。 時々この写真のような描く事を意識していないおおらかな遊びを目にする、と同時に遥か遠ざかった私の子供時代を蘇らせるタイムマシーンゾーンでもある。
何やら名前と子供の顔が幾つか描かれてあった。その中でゾエという名は私にとって聞き慣れぬ響きだったので、丁度、同じマンションの3階上に住む、名前の前に博士号を冠した気さくな女性が通りかかったので彼女に質問した。
ゾエという名は聖書のアダムとイヴの物語のイヴのギリシャ語で ^^^生命 生きるもの^^^ を意味してい、、、この頃ドイツで流行るもの、、、っている名前、、、、という女士の講義でした。
ちなみに私の名前はドイツ的読み方をすると Kazu—ko カズーコ
ニケ 端子さんのシュールチゥーテと時間表。 おばあちゃん、おじいちゃんも出席する習慣があるドイツの入学式、それでおばあちゃんである私もその習慣に従いハンブルグへ赴いた。 娘の入学式は私たちはカイロで経験した。37年前のカイロ日本人小学校は、1年生から6年生までの全校生徒数がせいぜい24名くらいだったと思う。砂漠がすぐそこに迫っているカイロの砂っぽい街のはしにあった日本人小学校へ通っていた時代が彷彿と思い出された。1年に一度きり雨が降らないカイロで理科の時間に先生が雲の説明をするのに、サテ空を仰ぎ見たら見渡す限りどこにも雲らしきものさえなく困ったエピソードは今でも覚えている。 勿論日本のテレビの受信などということは夢のまた夢、それどころか玩具というものが手に入り難く子供たちは遊びをを発明し作り出して遊んでいた事等が懐かしくよみがえってきた。