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私は毎日曜日の朝、異教徒であるわたくしは、ラジオのミサの実況放送をききながら、朝食をする。
宗教欄で宗教を問われれば、私は仏教と書くだけの紙上だけの仏教徒で実践的仏教徒ではないし勿論の事言う間でもなくキリスト教には帰依していない。
では何故毎日曜日にラシオとはいえ、ミサの実況放送を聞くのかと問われれば、興味、もっとはっきり言えば、好奇心からで、仏教のお坊さんは魅力に乏しいからキリスト教に改宗しようとかそういった類の理由はない、、、ミサでどんな事について話すのかという事とキリス教の神様とバイブルについての知識が得られるからという以外には他のシタゴコロも、オモワクもない。
今日はミサをライフで経験した。
折々、しかもキリスト教徒でない私が、時々教会に入って、いろいろ様々な日常生活の出来事について八百万の神的思考から勝手にお願いをするので、今日は感謝の気持ちを伝えたかったのでミサに赴いた、、、、、、折り目正しく仏教徒、神道の端くれとして礼儀を尽くすというほど緊張した雰囲気ではないが、でもお願いしたらお礼を言わないとやはり気になる、、、が、考えてみれば、サンタさんが仏教徒の国で有無を言わせずアレほど歓迎を受け、国を挙げておもてなしをしているのだから、、、とは思いませんが、兎に角、心の広い神様は許してくださるだろうと都合の良い解釈をして時々教会に入り、ローソクを買い、1つ50セントだがお願いが多い時は奮発して1ー2ユーロをお賽銭箱(横においてある寄付あるいは喜捨としてお金を入れる箱)に入れ火を灯し、祈る。
ミサには、お説教をする人とお説教を聞く人達の間に唄あり、合唱あり、言葉での受け答えがあり一方通行でない、交流がある。そのミサでの受け答えは何百年もの間、受け継がれた聖書の中の問答であるにせよ、ミサを通して何回も様式化された会話のような交流があり、歌あり合唱あり、パイプオルガンの演奏が全てを厳かに演出しどこかオペラ或いはミュージカルの原型をみているようで、またそれは身近かな日常生活の中にも、もぐり込んでいる様にも感じられる、、、例えば身近な日常の買い物みたいだなーなどと時々思うことがあったりする。
買い物だけに留まらないが、このキリスト教文化の全てはお互いの意見の交換から始るようだ、、、始めに言葉あり。
写真はミサが終了し司教から聖餅を受けている人々。
この写真はひんしゅくを買わないため、日本にいる息子に送るという理由を言って撮影した、、、そして実際にそうだった。